龍馬 伝 pandora 18 58

またこのころ、寺田屋伊助[141] が偶然龍馬の手紙を持って逓信大臣大浦兼武のもとを訪れており、皇后は龍馬を哀悼して弔慰金を下賜している。これに感動した伊助は基金を募り、同年12月、京都霊山護国神社に『贈正四位坂本龍馬君忠魂碑』を建立した。題字は皇后宮太夫を務めていた香川敬三が揮毫、碑文は大浦兼武が撰んでおり、田中光顕の弔歌も刻まれている[139]。また寺田屋の隣に複製の日が設置されている[139]。, 庶民の間でも龍馬は維新の偉人として人気者となり、戦前には龍馬や海援隊を主題とした映画・演劇が多数製作されている。, 昭和2年(1927年)、旧自由党員の今幡西衛らは「坂本中岡両先生銅像建設会」を組織し、その銅像建設資金に充てようと自ら『雋傑坂本先生傳』を執筆した。これが昭和9年(1934年)1月、京都円山公園に建立された龍馬と中岡慎太郎の銅像である。, 昭和3年(1928年)には高知の青年たちが募った寄付により、本山白雲の製作による龍馬の銅像が桂浜に建立された。第二次大戦中の金属供出の際もこの銅像だけは「海軍の祖」であるとして供出を免れている。, 昭和31年(1956年)に山岡荘八著『坂本竜馬』が刊行。さらに、昭和37年(1962年)に司馬遼太郎の『竜馬がゆく』が発表され、司馬の代表作の一つとなるとともに、戦後期における龍馬像の典型が形づくられた[142]。以後も、龍馬や海援隊を主題とした映画が多数製作されている。, 平成12年(2000年)に朝日新聞社が実施した、西暦1000年から1999年までの日本史の人物を対象にした「あなたが一番好きな政治リーダー」の読者投票において、龍馬は1457票を集めて1位を獲得した[143]。, 2000年代に入ると坂本龍馬とグラバーとの関係を強調して、論者がグラバーがメンバーであったと主張するフリーメイソンと龍馬とを結びつける陰謀論が現れ、テレビ番組でも取り上げられている[144][145][146]。 *, 『坂本龍馬と海援隊』(新・歴史群像シリーズ 20)(学研パブリッシング、2009年)pp.110-111, 『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)pp.150-151、『坂本龍馬と海援隊』(新・歴史群像シリーズ 20)(学研パブリッシング、2009年)p.128, 『坂本龍馬と海援隊』(新・歴史群像シリーズ 20)(学研パブリッシング、2009年)p.129, 菊地明、伊東成郎、山村竜也『坂本龍馬101の謎』(新人物往来社、2009年)pp.242-244, 『坂本龍馬と海援隊』(新・歴史群像シリーズ 20)(学研パブリッシング、2009年)p.96, 菊地明、伊東成郎、山村竜也『坂本龍馬101の謎』(新人物往来社、2009年)pp.303-305, 菊地明、伊東成郎、山村竜也『坂本龍馬101の謎』(新人物往来社、2009年)pp.343-345, 加治将一『あやつられた龍馬―明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン』(祥伝社、2006年)、加治将一『石の扉―フリーメーソンで読み解く世界』(新潮社、2004年), 安岡秀峰『反魂香』 (明治32年)。鈴木かほる『史料が語る 坂本龍馬の妻お龍』(新人物往来社、2007年)pp.200-201, 『坂本龍馬 幕末歴史検定 公式テキストブック』(新人物往来社、2008年)pp.97-98, 菊地明、伊東成郎、山村竜也『坂本龍馬101の謎』(新人物往来社、2009年)pp.220-222, 福永酔剣『日本刀物語』(雄山閣出版、1988年)pp.158-159、163-166, https://www.asahi.com/articles/ASL174FXXL17UWPJ003.html, http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001934086-00, テレビ東京「新説! 同時期、中岡慎太郎は陸援隊を結成している。, 海援隊結成からほどなく「いろは丸沈没事件」が発生した。4月23日晩、大洲藩籍で海援隊が運用する(一航海500両で契約)蒸気船「いろは丸」が瀬戸内海中部の備後国鞆の浦沖で紀州藩船「明光丸」と衝突し、「明光丸」が遥かに大型であったために「いろは丸」は大きく損傷して沈没してしまった。龍馬は万国公法をもとに[注 30] 紀州藩側の過失を厳しく追及、さらには「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る」の歌詞入り流行歌を流行らせるなどして紀州藩を批判した。後藤ら土佐藩も支援した結果、薩摩藩士・五代友厚の調停によって、5月に紀州藩は「いろは丸」が積んでいたと龍馬側が主張したミニエー銃400丁など銃火器35,630両や金塊や陶器などの品47,896両198文の賠償金83,526両198文の支払に同意した。その後減額して70,000両になった[75][注 31]。, 海運通商活動以外に龍馬は蝦夷地の開拓も構想しており[76]、後年、妻のお龍も「私も行くつもりで、北海道の言葉の稽古をしていました」と回顧している[77]。一方で、海援隊の経済状態は苦しく、開成館長崎商会主任の岩崎弥太郎(三菱財閥創業者)はたびたび金の無心にくる海援隊士を日記に「厄介もの」と書き残している[78]。, いろは丸事件の談判を終えた龍馬と後藤象二郎は慶応3年(1867年)6月9日に藩船「夕顔丸」に乗船して長崎を発ち、兵庫へ向かった。京都では将軍・徳川慶喜および島津久光・伊達宗城・松平春嶽・山内容堂による四侯会議が開かれており、後藤は山内容堂に京都へ呼ばれていた。龍馬は「夕顔丸」船内で政治綱領を後藤に提示した。それは以下の八項目であった。, 以上の八項目は「船中八策」として知られることになる。長岡謙吉が筆記したこれは、のちに成立した維新政府の綱領の実質的な原本となった。龍馬によって書かれた船中八策の原本は見つかっておらず、近年では船中八策は創作とする説もある。ただ新政府綱領八策(後述)の自筆本が残っており、思想や主張の内容は同じである[注 32][64]。, 龍馬の提示を受けた後藤はただちに京都へ出向し、建白書の形式で山内容堂へ上書しようとしたが、このときすでに中岡慎太郎の仲介によって乾退助、毛利恭助、谷干城らが薩摩の西郷隆盛、吉井友実、小松帯刀らと薩土討幕の密約を結び、翌日容堂はこれを承認したうえで、乾らとともに大坂で武器300挺の買い付けを指示して土佐に帰藩していた。このため、大坂で藩重臣と協議してこれを藩論となした。次いで後藤は6月22日に薩摩藩と会合を持ち、薩摩側は西郷隆盛・小松帯刀・大久保一蔵、土佐側からは坂本龍馬・中岡慎太郎・後藤象二郎・福岡孝弟・寺村左膳・真辺正心(栄三郎)が代表となり、船中八策に基づいた王政復古を目標となす薩土盟約が成立した。後藤は薩摩と密約を成立させる一方で、土佐に帰って容堂に上書を行い、これからほどない6月26日、芸州藩が加わって薩土芸盟約が成立した。, 7月6日、龍馬が不在中の長崎で英国軍艦イカロス号の水夫が殺害され、海援隊士に嫌疑がかけられる事件が発生した。龍馬と後藤はこの対応のために長崎へ戻り、龍馬は9月まで英国公使パークスとの談判にあたっていた。結局、容疑不十分で海援隊士の嫌疑は晴れている(犯人は福岡藩士・金子才吉で事件直後に自刃していた[79])。, 後藤は9月2日に京都へ戻ったが、イカロス号事件の処理に時間がかかったことと薩土両藩の思惑の違いから、9月7日に薩土盟約は解消してしまった。その後、薩摩は討幕の準備を進めることになる。, 事件の処理を終えた龍馬は新式小銃1,000挺あまりを船に積んで土佐へ運び、9月23日、5年半ぶりに故郷の土を踏み家族と再会した。10月9日に龍馬は入京し、この間、容堂の同意を受けた後藤が10月3日に二条城に登城して、容堂、後藤、寺村、福岡、神山左多衛の連名で老中・板倉勝静に大政奉還建白書を提出し、幕府が時勢に従い政権を朝廷に奉還することを提案していた。慶喜がこの建白を受け入れるか否かは不明確で、龍馬は後藤に「建白が受け入れられない場合は、あなたはその場で切腹する覚悟でしょうから、後下城なきときは、海援隊同志とともに慶喜を路上で待ち受けて仇を討ちます。地下で相まみえましょう」[注 33] と激しい内容の手紙を送っている[80]。一方、将軍・徳川慶喜は10月13日に二条城で後藤を含む諸藩重臣に大政奉還を諮問。翌14日に明治天皇に上奏。15日に勅許が下された。, この大政奉還・上奏の直前(10月14日)に討幕の密勅が薩摩と長州に下されていた。大政奉還の成立によって討幕の大義名分が失われ、21日に討幕実行延期を命じられている。, 展望が見えた龍馬は、10月16日に戸田雅楽(尾崎三良)と新政府職制案の「新官制擬定書」を策定した。龍馬が西郷に見せた新政府職制案の名簿に西郷の名はあったが龍馬の名が欠けており、新政府に入ってはどうかと勧めると龍馬は「わしは世界の海援隊をやります」と答えたという有名な逸話があるが、尾崎の史料には龍馬の名は参議候補者として記載されており、この逸話は大正3年に書かれた千頭清臣作の『坂本竜馬』が出典の創作の可能性がある[81][82]。ただし龍馬本人は役人になるのは嫌とお龍に語ったという話もあり[83]、11月の陸奥への手紙には「世界の話もできるようになる」ともあって[注 34] 尾崎の案と西郷に見せたものは違う名簿という可能性なども考えられる。尾崎の手控とされる資料は数種あり、参議の項に坂本の名の有無、大臣の項に慶喜の名の有無などの違いが指摘されている。, また、11月上旬には船中八策をもとにしたとされる「新政府綱領八策[84]」を起草し、新政府の中心人物の名は故意に「○○○自ら盟主と為り」と空欄にしておいた。龍馬が誰を意図していたのかはさまざまな説がある。, 後藤象二郎の依頼で、慶応3年10月24日に山内容堂の書状を持って越前へ出向き、松平春嶽の上京を促して三岡八郎(由利公正)と会談したあと、11月5日に帰京した[85]。帰京直後に三岡の新政府入りを推薦する後藤象二郎宛ての手紙「越行の記」を記し[85]、さらに11月10日には福井藩士・中根雪江宛てに三岡を出仕させるよう懇願する手紙を記している[85]。, 慶応3年11月15日(1867年12月10日)、龍馬は宿にしていた河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいた。当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などの訪問を受けている。午後8時ごろ、龍馬と中岡が話していたところ、十津川郷士と名乗る男たち数人が来訪し面会を求めてきた。従僕の藤吉が取り次いだところで、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋に押し入った。龍馬達は帯刀しておらず、龍馬はまず額を深く斬られ、その他数か所を斬られて、ほとんど即死に近い形で殺害された[86][87]。享年33(満31歳没)。旧暦だが、龍馬の誕生日と命日が同じ日になってしまった。, 当初は新選組の関与が強く疑われた[88]。また、海援隊士たちは紀州藩による、いろは丸事件の報復を疑い、12月6日に陸奥陽之助らが紀州藩御用人・三浦休太郎を襲撃して、三浦の護衛にあたっていた新選組と斬り合いになっている(天満屋事件)。慶応4年(1868年)4月に下総国流山で出頭し捕縛された新選組局長・近藤勇は、部隊の小監察であった土佐藩士谷干城の強い主張によって斬首に処された。ただし、谷自身は近藤が「有志の徒」を殺害したとは言及しているが、龍馬の名はまったく出しておらず、斬首の理由としても言及していない[89]。また、新選組に所属していた大石鍬次郎は龍馬殺害の疑いで捕縛され拷問の末に自らが龍馬を殺害したと自白するも、のちに撤回している。, 明治3年(1870年)、箱館戦争で降伏し捕虜になった元見廻組の今井信郎が、取り調べ最中に、与頭・佐々木只三郎とその部下6人(今井信郎・渡辺吉太郎・高橋安次郎・桂早之助・土肥伴蔵・桜井大三郎)が坂本龍馬を殺害したと供述し、現在では見廻組犯人説が定説になっている[86][90][注 35]。その一方で、薩摩藩黒幕説やフリーメイソン陰謀説までさまざまな異説が生まれ現在まで取り沙汰されている[91][92]。, 墓所は京都市東山区の京都霊山護国神社の霊山墓地中腹。墓碑は桂小五郎が揮毫した。なお、高知県護国神社と靖国神社にも祀られている。, 箱館戦争が終わった直後の明治2年(1869年)6月から9月に明治政府は論功行賞を行ったが、坂本龍馬には何の行賞も行われなかった。明治3年(1870年)8月に政府は龍馬と中岡慎太郎の家名存続を沙汰し[132]、龍馬の長姉・千鶴の長男・小野淳輔(高松太郎)が坂本直と改名して坂本家を継ぐことになり、高知県から永世15人口(30石)が下された[133]。なお、他の維新の元勲の行賞は西郷隆盛は2,000石、木戸孝允は1,800石、後藤象二郎は1,000石であった[134]。, 坂本龍馬は維新後しばらくは注目されることのなかった存在だったが、明治16年(1883年)に高知の『土陽新聞』に坂崎紫瀾が書いた『汗血千里の駒』が掲載され、大評判となったことにより一躍その名が知られるようになった[135]。ただ龍馬がまったくの無名だったかというと、それはそれでオーバーである。『新選組始末記』の作者として有名な西村兼文が編輯し、明治9年(1876年)1月に出版された志士番付『近世報国赤心士鑑』[136] では、龍馬は東西七段の表で二段目の三番目の位置である。この番付の最上段は藩主や公家・家老クラスで、家士クラスは二段目から。東の一番は長州・来島又兵衛、二番目も長州の久坂玄瑞、高杉晋作は龍馬の次の東の四番目である。しかも龍馬は土佐では最上位にランクされているので、十分大物の扱いであろう[137]。学校教科書にも掲載され、歴史教育でも扱われるようになる[138]。

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