龍馬 伝 pandora 18 58

*, 『坂本龍馬と海援隊』(新・歴史群像シリーズ 20)(学研パブリッシング、2009年)pp.110-111, 『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)pp.150-151、『坂本龍馬と海援隊』(新・歴史群像シリーズ 20)(学研パブリッシング、2009年)p.128, 『坂本龍馬と海援隊』(新・歴史群像シリーズ 20)(学研パブリッシング、2009年)p.129, 菊地明、伊東成郎、山村竜也『坂本龍馬101の謎』(新人物往来社、2009年)pp.242-244, 『坂本龍馬と海援隊』(新・歴史群像シリーズ 20)(学研パブリッシング、2009年)p.96, 菊地明、伊東成郎、山村竜也『坂本龍馬101の謎』(新人物往来社、2009年)pp.303-305, 菊地明、伊東成郎、山村竜也『坂本龍馬101の謎』(新人物往来社、2009年)pp.343-345, 加治将一『あやつられた龍馬―明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン』(祥伝社、2006年)、加治将一『石の扉―フリーメーソンで読み解く世界』(新潮社、2004年), 安岡秀峰『反魂香』 (明治32年)。鈴木かほる『史料が語る 坂本龍馬の妻お龍』(新人物往来社、2007年)pp.200-201, 『坂本龍馬 幕末歴史検定 公式テキストブック』(新人物往来社、2008年)pp.97-98, 菊地明、伊東成郎、山村竜也『坂本龍馬101の謎』(新人物往来社、2009年)pp.220-222, 福永酔剣『日本刀物語』(雄山閣出版、1988年)pp.158-159、163-166, https://www.asahi.com/articles/ASL174FXXL17UWPJ003.html, http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001934086-00, テレビ東京「新説! *, しかし浪人は入所資格を認められなかったこともあり、龍馬は入所できなかったのではないかと指摘している研究者もいる(松浦玲『検証・龍馬伝説』など)。, この西郷と龍馬との初対面の逸話について時期的に疑問とする見方もある。佐々木克『坂本龍馬とその時代』(河出書房新社、2009年)pp.62-68, 「亀山社中」の名称は同時期の記録にはなく単に「社中」と記されていた。「亀山社中」の名称は明治期の文献以後に生じている。『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)pp.144-145, 初期の株式会社は出資者のことを「社中」と称した。ただし、亀山社中の「社中」にはそのような意味は含まれていないのではないかという人もいる。坂本藤良『幕末維新の経済人』pp.201-203, ユニオン号所有権問題の談判を行っていた。松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)pp.92-94, 『維新土佐勤王史』などの記述をもとに龍馬本人は実戦には参加せずに陸上で観戦していたとする説もある。『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)pp.110-117、『坂本龍馬と海援隊』(新・歴史群像シリーズ 20)(学研パブリッシング、2009年)p.91, しかし、近年沈没したいろは丸に対して行われた調査では、龍馬が主張した銃火器などは見つかっていないことが明らかになっている。, 龍馬が「船中八策」を作成したことは通説になっているが、「船中八策」の原文書が存在しないため、本当に龍馬が作成したのか疑問視している研究者も存在する(青山忠正、松浦玲など)。詳しくは、青山忠正『明治維新の言語と史料』(清文堂出版、2006年)・松浦玲「『万機公論ニ決スヘシ』は維新後に実現されたか?」(『新・歴史群像シリーズ (4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)を参照。, (慶応3年10月13日付書簡)原文「建白の議、万一行はれざれば固より必死の後覚悟故、御下城これ無き時は、海援隊の一手を以て、大樹参内の道路に待受け、社稷の為、不戴天の讐を報じ、事の成否二論なく、先生に地下に御面会仕り候」宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)pp.483-484. 龍馬伝; 出どころ: mune8153 再生回数: 59; 3 . 明治24年(1891年)には正四位が追贈された。, 次に龍馬ブームが起きるのは日露戦争時である。日露が国交を断絶した明治37年(1901年)2月6日、皇后・美子の夢枕に白衣を着た37、8歳の男性が立ち、「微臣ハ坂本龍馬ニ候ガ」[139] と名乗り、「私が海軍軍人を守護いたします」と語り、皇后はこの人物を知らなかったが、宮内大臣田中光顕(土佐勤王党出身で陸援隊幹部だった)が、龍馬の写真を見せたところ、皇后は間違いなくこの人物だと語った。この話が全国紙に掲載されたため、坂本龍馬の評判が全国に広まることとなった[140]。 動画ブログ更新情報. "龍馬伝" の再生リストの検索結果です もっと見る 6 . 龍馬伝 Х プロフェッショナル # 龍馬 #福山 ... 18. irisーアイリスー 第11話 -2010年07月14日. *, (文久3年6月29日付書簡)原文「平井の収二郎ハ誠にむごい いもふとかをなげき、いか計か」宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)pp.75-87, (文久3年6月29日付書簡)原文「(前略)右申所の姦吏を一事に軍いたし、打殺、日本を今一度せんたくいたし申候事二いたすくとの神願二て候。(以下略)」宮地佐一郎『龍馬の手紙』 (講談社学術文庫、2003年) pp.75-87. またこのころ、寺田屋伊助[141] が偶然龍馬の手紙を持って逓信大臣大浦兼武のもとを訪れており、皇后は龍馬を哀悼して弔慰金を下賜している。これに感動した伊助は基金を募り、同年12月、京都霊山護国神社に『贈正四位坂本龍馬君忠魂碑』を建立した。題字は皇后宮太夫を務めていた香川敬三が揮毫、碑文は大浦兼武が撰んでおり、田中光顕の弔歌も刻まれている[139]。また寺田屋の隣に複製の日が設置されている[139]。, 庶民の間でも龍馬は維新の偉人として人気者となり、戦前には龍馬や海援隊を主題とした映画・演劇が多数製作されている。, 昭和2年(1927年)、旧自由党員の今幡西衛らは「坂本中岡両先生銅像建設会」を組織し、その銅像建設資金に充てようと自ら『雋傑坂本先生傳』を執筆した。これが昭和9年(1934年)1月、京都円山公園に建立された龍馬と中岡慎太郎の銅像である。, 昭和3年(1928年)には高知の青年たちが募った寄付により、本山白雲の製作による龍馬の銅像が桂浜に建立された。第二次大戦中の金属供出の際もこの銅像だけは「海軍の祖」であるとして供出を免れている。, 昭和31年(1956年)に山岡荘八著『坂本竜馬』が刊行。さらに、昭和37年(1962年)に司馬遼太郎の『竜馬がゆく』が発表され、司馬の代表作の一つとなるとともに、戦後期における龍馬像の典型が形づくられた[142]。以後も、龍馬や海援隊を主題とした映画が多数製作されている。, 平成12年(2000年)に朝日新聞社が実施した、西暦1000年から1999年までの日本史の人物を対象にした「あなたが一番好きな政治リーダー」の読者投票において、龍馬は1457票を集めて1位を獲得した[143]。, 2000年代に入ると坂本龍馬とグラバーとの関係を強調して、論者がグラバーがメンバーであったと主張するフリーメイソンと龍馬とを結びつける陰謀論が現れ、テレビ番組でも取り上げられている[144][145][146]。 *, 『維新土佐勤王史』を典拠に一般には五千両として知られているが、より信頼性の高いこの時に龍馬と対面した横井小楠の記録では千両になっている(『横井小楠関係史料』)。『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)p.30, (文久3年5月17日付書簡)原文「この頃ハ天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、大先生にことの外かはいがられ候て、(中略)すこしエヘンがをしてひそかにおり申候。達人の見るまなこハおそろしきものとや、つれづれニもこれあり。猶エヘンエヘン、」宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)pp.64-67. 龍馬伝; 出どころ: woopypop 再生回数: 18; 1 . 同時期、中岡慎太郎は陸援隊を結成している。, 海援隊結成からほどなく「いろは丸沈没事件」が発生した。4月23日晩、大洲藩籍で海援隊が運用する(一航海500両で契約)蒸気船「いろは丸」が瀬戸内海中部の備後国鞆の浦沖で紀州藩船「明光丸」と衝突し、「明光丸」が遥かに大型であったために「いろは丸」は大きく損傷して沈没してしまった。龍馬は万国公法をもとに[注 30] 紀州藩側の過失を厳しく追及、さらには「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る」の歌詞入り流行歌を流行らせるなどして紀州藩を批判した。後藤ら土佐藩も支援した結果、薩摩藩士・五代友厚の調停によって、5月に紀州藩は「いろは丸」が積んでいたと龍馬側が主張したミニエー銃400丁など銃火器35,630両や金塊や陶器などの品47,896両198文の賠償金83,526両198文の支払に同意した。その後減額して70,000両になった[75][注 31]。, 海運通商活動以外に龍馬は蝦夷地の開拓も構想しており[76]、後年、妻のお龍も「私も行くつもりで、北海道の言葉の稽古をしていました」と回顧している[77]。一方で、海援隊の経済状態は苦しく、開成館長崎商会主任の岩崎弥太郎(三菱財閥創業者)はたびたび金の無心にくる海援隊士を日記に「厄介もの」と書き残している[78]。, いろは丸事件の談判を終えた龍馬と後藤象二郎は慶応3年(1867年)6月9日に藩船「夕顔丸」に乗船して長崎を発ち、兵庫へ向かった。京都では将軍・徳川慶喜および島津久光・伊達宗城・松平春嶽・山内容堂による四侯会議が開かれており、後藤は山内容堂に京都へ呼ばれていた。龍馬は「夕顔丸」船内で政治綱領を後藤に提示した。それは以下の八項目であった。, 以上の八項目は「船中八策」として知られることになる。長岡謙吉が筆記したこれは、のちに成立した維新政府の綱領の実質的な原本となった。龍馬によって書かれた船中八策の原本は見つかっておらず、近年では船中八策は創作とする説もある。ただ新政府綱領八策(後述)の自筆本が残っており、思想や主張の内容は同じである[注 32][64]。, 龍馬の提示を受けた後藤はただちに京都へ出向し、建白書の形式で山内容堂へ上書しようとしたが、このときすでに中岡慎太郎の仲介によって乾退助、毛利恭助、谷干城らが薩摩の西郷隆盛、吉井友実、小松帯刀らと薩土討幕の密約を結び、翌日容堂はこれを承認したうえで、乾らとともに大坂で武器300挺の買い付けを指示して土佐に帰藩していた。このため、大坂で藩重臣と協議してこれを藩論となした。次いで後藤は6月22日に薩摩藩と会合を持ち、薩摩側は西郷隆盛・小松帯刀・大久保一蔵、土佐側からは坂本龍馬・中岡慎太郎・後藤象二郎・福岡孝弟・寺村左膳・真辺正心(栄三郎)が代表となり、船中八策に基づいた王政復古を目標となす薩土盟約が成立した。後藤は薩摩と密約を成立させる一方で、土佐に帰って容堂に上書を行い、これからほどない6月26日、芸州藩が加わって薩土芸盟約が成立した。, 7月6日、龍馬が不在中の長崎で英国軍艦イカロス号の水夫が殺害され、海援隊士に嫌疑がかけられる事件が発生した。龍馬と後藤はこの対応のために長崎へ戻り、龍馬は9月まで英国公使パークスとの談判にあたっていた。結局、容疑不十分で海援隊士の嫌疑は晴れている(犯人は福岡藩士・金子才吉で事件直後に自刃していた[79])。, 後藤は9月2日に京都へ戻ったが、イカロス号事件の処理に時間がかかったことと薩土両藩の思惑の違いから、9月7日に薩土盟約は解消してしまった。その後、薩摩は討幕の準備を進めることになる。, 事件の処理を終えた龍馬は新式小銃1,000挺あまりを船に積んで土佐へ運び、9月23日、5年半ぶりに故郷の土を踏み家族と再会した。10月9日に龍馬は入京し、この間、容堂の同意を受けた後藤が10月3日に二条城に登城して、容堂、後藤、寺村、福岡、神山左多衛の連名で老中・板倉勝静に大政奉還建白書を提出し、幕府が時勢に従い政権を朝廷に奉還することを提案していた。慶喜がこの建白を受け入れるか否かは不明確で、龍馬は後藤に「建白が受け入れられない場合は、あなたはその場で切腹する覚悟でしょうから、後下城なきときは、海援隊同志とともに慶喜を路上で待ち受けて仇を討ちます。地下で相まみえましょう」[注 33] と激しい内容の手紙を送っている[80]。一方、将軍・徳川慶喜は10月13日に二条城で後藤を含む諸藩重臣に大政奉還を諮問。翌14日に明治天皇に上奏。15日に勅許が下された。, この大政奉還・上奏の直前(10月14日)に討幕の密勅が薩摩と長州に下されていた。大政奉還の成立によって討幕の大義名分が失われ、21日に討幕実行延期を命じられている。, 展望が見えた龍馬は、10月16日に戸田雅楽(尾崎三良)と新政府職制案の「新官制擬定書」を策定した。龍馬が西郷に見せた新政府職制案の名簿に西郷の名はあったが龍馬の名が欠けており、新政府に入ってはどうかと勧めると龍馬は「わしは世界の海援隊をやります」と答えたという有名な逸話があるが、尾崎の史料には龍馬の名は参議候補者として記載されており、この逸話は大正3年に書かれた千頭清臣作の『坂本竜馬』が出典の創作の可能性がある[81][82]。ただし龍馬本人は役人になるのは嫌とお龍に語ったという話もあり[83]、11月の陸奥への手紙には「世界の話もできるようになる」ともあって[注 34] 尾崎の案と西郷に見せたものは違う名簿という可能性なども考えられる。尾崎の手控とされる資料は数種あり、参議の項に坂本の名の有無、大臣の項に慶喜の名の有無などの違いが指摘されている。, また、11月上旬には船中八策をもとにしたとされる「新政府綱領八策[84]」を起草し、新政府の中心人物の名は故意に「○○○自ら盟主と為り」と空欄にしておいた。龍馬が誰を意図していたのかはさまざまな説がある。, 後藤象二郎の依頼で、慶応3年10月24日に山内容堂の書状を持って越前へ出向き、松平春嶽の上京を促して三岡八郎(由利公正)と会談したあと、11月5日に帰京した[85]。帰京直後に三岡の新政府入りを推薦する後藤象二郎宛ての手紙「越行の記」を記し[85]、さらに11月10日には福井藩士・中根雪江宛てに三岡を出仕させるよう懇願する手紙を記している[85]。, 慶応3年11月15日(1867年12月10日)、龍馬は宿にしていた河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいた。当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などの訪問を受けている。午後8時ごろ、龍馬と中岡が話していたところ、十津川郷士と名乗る男たち数人が来訪し面会を求めてきた。従僕の藤吉が取り次いだところで、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋に押し入った。龍馬達は帯刀しておらず、龍馬はまず額を深く斬られ、その他数か所を斬られて、ほとんど即死に近い形で殺害された[86][87]。享年33(満31歳没)。旧暦だが、龍馬の誕生日と命日が同じ日になってしまった。, 当初は新選組の関与が強く疑われた[88]。また、海援隊士たちは紀州藩による、いろは丸事件の報復を疑い、12月6日に陸奥陽之助らが紀州藩御用人・三浦休太郎を襲撃して、三浦の護衛にあたっていた新選組と斬り合いになっている(天満屋事件)。慶応4年(1868年)4月に下総国流山で出頭し捕縛された新選組局長・近藤勇は、部隊の小監察であった土佐藩士谷干城の強い主張によって斬首に処された。ただし、谷自身は近藤が「有志の徒」を殺害したとは言及しているが、龍馬の名はまったく出しておらず、斬首の理由としても言及していない[89]。また、新選組に所属していた大石鍬次郎は龍馬殺害の疑いで捕縛され拷問の末に自らが龍馬を殺害したと自白するも、のちに撤回している。, 明治3年(1870年)、箱館戦争で降伏し捕虜になった元見廻組の今井信郎が、取り調べ最中に、与頭・佐々木只三郎とその部下6人(今井信郎・渡辺吉太郎・高橋安次郎・桂早之助・土肥伴蔵・桜井大三郎)が坂本龍馬を殺害したと供述し、現在では見廻組犯人説が定説になっている[86][90][注 35]。その一方で、薩摩藩黒幕説やフリーメイソン陰謀説までさまざまな異説が生まれ現在まで取り沙汰されている[91][92]。, 墓所は京都市東山区の京都霊山護国神社の霊山墓地中腹。墓碑は桂小五郎が揮毫した。なお、高知県護国神社と靖国神社にも祀られている。, 箱館戦争が終わった直後の明治2年(1869年)6月から9月に明治政府は論功行賞を行ったが、坂本龍馬には何の行賞も行われなかった。明治3年(1870年)8月に政府は龍馬と中岡慎太郎の家名存続を沙汰し[132]、龍馬の長姉・千鶴の長男・小野淳輔(高松太郎)が坂本直と改名して坂本家を継ぐことになり、高知県から永世15人口(30石)が下された[133]。なお、他の維新の元勲の行賞は西郷隆盛は2,000石、木戸孝允は1,800石、後藤象二郎は1,000石であった[134]。, 坂本龍馬は維新後しばらくは注目されることのなかった存在だったが、明治16年(1883年)に高知の『土陽新聞』に坂崎紫瀾が書いた『汗血千里の駒』が掲載され、大評判となったことにより一躍その名が知られるようになった[135]。ただ龍馬がまったくの無名だったかというと、それはそれでオーバーである。『新選組始末記』の作者として有名な西村兼文が編輯し、明治9年(1876年)1月に出版された志士番付『近世報国赤心士鑑』[136] では、龍馬は東西七段の表で二段目の三番目の位置である。この番付の最上段は藩主や公家・家老クラスで、家士クラスは二段目から。東の一番は長州・来島又兵衛、二番目も長州の久坂玄瑞、高杉晋作は龍馬の次の東の四番目である。しかも龍馬は土佐では最上位にランクされているので、十分大物の扱いであろう[137]。学校教科書にも掲載され、歴史教育でも扱われるようになる[138]。 坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日〈新暦・1836年1月3日〉 - 慶応3年11月15日〈新暦・1867年12月10日〉)は、江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。, 諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。通称は龍馬(竜馬)[注 1]。 12月5日、龍馬は間崎哲馬・近藤長次郎とともに幕府政事総裁職にあった前福井藩主・松平春嶽に拝謁した[34][注 11]。12月9日、春嶽から幕府軍艦奉行並・勝海舟への紹介状を受けた龍馬と門田為之助・近藤長次郎は海舟の屋敷を訪問して門人となった[35][36]。, 龍馬と千葉重太郎が開国論者の海舟を斬るために訪れたが、逆に世界情勢と海軍の必要性を説かれた龍馬が大いに感服し、己の固陋を恥じてその場で海舟の弟子になったという話が広く知られており[37]、この話は海舟本人が明治23年に『追賛一話』で語ったものが出典である[38]。だが、春嶽から正式な紹介状を受けての訪問であること、また海舟の日記に記載されている12月29日の千葉重太郎の訪問時にはすでに龍馬は弟子であった可能性があることから、近年では前述の龍馬と海舟との劇的な出会いの話は海舟の誇張、または記憶違いであるとする見方が強い[38][39][40]。いずれにせよ、龍馬が海舟に心服していたことは姉・乙女への手紙で海舟を「日本第一の人物」と称賛していることによく現れている[注 12]。, 勝海舟は山内容堂に取りなして、文久3年(1863年)2月25日に龍馬の脱藩の罪は赦免され、さらに土佐藩士が海舟の私塾に入門することを追認した。龍馬は海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走し、土佐藩出身者の千屋寅之助・新宮馬之助・望月亀弥太・近藤長次郎・沢村惣之丞・高松太郎・安岡金馬らが海舟の門人に加わっている。また、龍馬が土佐勤王党の岡田以蔵を海舟の京都での護衛役にし、海舟が路上で3人の浪士に襲われた際に以蔵がこれを一刀のもとに斬り捨てた事件はこのころのことである[41]。, 幕府要人と各藩藩主に海軍設立の必要性を説得するため、海舟は彼らを軍艦に便乗させて実地で経験させた。4月23日、14代将軍・徳川家茂が軍艦「順動丸」に乗艦のあと、「神戸海軍操練所」設立の許可を受け同時に海舟の私塾(神戸海軍塾)開設も認められた。幕府から年三千両の経費の支給も承諾されたが、この程度の資金では海軍操練所の運営は賄えず、そのため5月に龍馬は福井藩に出向して松平春嶽から千両を借入れした[注 13]。 宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)pp.60-61. 』 と表示されているページは プロキシ接続か、Youkuプレーヤーを利用すれば視聴が可能です。 Topページから 『 Youku.comでの動画視聴法 』 を参照して下さい。 49,893 10年 前. 101,852 10年 前. 従来の通説では、刀を授けたのは二姉の栄になっているが、これは才谷屋七代坂本源三郎の養女宍戸茂の証言(『土佐史談』115号)を採用した, 「坂本は飄然として江戸に下り、彼の旧識なる鍛冶橋外桶町の千葉重太郎方に草蛙を解きぬ」瑞山会『維新土佐勤王史』, 千葉佐那の回顧(「千葉灸治院」)では安政5年に帰国した以降、龍馬は小千葉道場に現れていないと述べており、脱藩後の小千葉道場寄宿を疑問視する見方もある。『坂本龍馬と海援隊』(新・歴史群像シリーズ 20)(学研パブリッシング、2009年)p.52, 拝謁の紹介者については明らかではなく、龍馬史研究家の平尾道雄は千葉重太郎と推定し、池田敬正(『坂本龍馬』中公新書)と松浦玲(『勝海舟』中公新書)は横井小楠、飛鳥井雅道は間崎哲馬と推定している。飛鳥井雅道『坂本龍馬』(講談社学術文庫、2002年)pp.173-176, (文久3年3月20日付書簡)「(前略)今にてハ日本第一の人物勝憐太郎殿という人にでしになり、(後略)」 5月17日付の姉・乙女への手紙で「この頃は軍学者勝麟太郎大先生の門人になり、ことの外かわいがられ候・・・すこしエヘンに顔をし、ひそかにおり申し候。エヘン、エヘン」[注 14] と近況を知らせている。, 龍馬が神戸海軍操練所設立のために方々を奔走していた最中の同年4月、土佐藩の情勢が変わり、下士階層の武市半平太[注 15] が藩論を主導していることに不満を持っていた山内容堂は再度実権を取り戻すべく、吉田東洋暗殺の下手人の探索を命じ、土佐勤王党の粛清に乗り出した。6月に勤王党の間崎哲馬・平井収二郎・弘瀬健太が切腹させられた。平井の妹・加尾は龍馬の恋人とされる女性で、龍馬は6月29日付の手紙で姉・乙女へ「平井収二郎のことは誠にむごい、妹の加尾の嘆きはいかばかりか」[注 16] と書き送っている。また、同じ手紙で攘夷を決行し米仏軍艦と交戦して苦杯を喫した長州藩の情勢と(下関戦争)、その際、幕府が姦吏の異人と内通し外国艦船の修理をしていることについて強い危機感を抱き「右申所の姦吏を一事に軍いたし打ち殺、日本を今一度洗濯いたし申し候」[注 17] と述べている。, 8月18日、倒幕勢力最有力であった長州藩の京都における勢力を一網打尽にすべく、薩摩藩と会津藩が手を組み「八月十八日の政変」が起きた。これにより京都の政情は一変し、佐幕派がふたたび実権を握った。8月に天誅組が大和国で挙兵したが、翌9月に壊滅して吉村虎太郎・那須信吾ら多くの土佐脱藩志士が討ち死にしている(天誅組の変)。土佐では9月に武市半平太が投獄され、土佐勤王党は壊滅状態に陥っていた(武市は1年半の入牢後の慶応元年閏5月に切腹となっている)。, 10月に龍馬は神戸海軍塾塾頭に任ぜられた[42][注 18]。翌元治元年(1864年)2月に前年に申請した帰国延期申請が拒否されると、龍馬は海軍操練所設立の仕事を続けるためにふたたび藩に拘束されることを好まず、藩命を無視して帰国を拒絶し再度の脱藩をする。2月9日、海舟は前年5月から続いている長州藩による関門海峡封鎖の調停のために長崎出張の命令を受け、龍馬もこれに同行した。熊本で龍馬は横井小楠を訪ねて会合し、小楠はその返書として海舟に「海軍問答」を贈り、海軍建設に関する諸提案をした[43]。, 5月、龍馬は生涯の伴侶となる楢崎龍(お龍)と出会い、のちに彼女を懇意にしていた寺田屋の女将・お登勢に預けている。5月14日、海舟が正規の軍艦奉行に昇進して神戸海軍操練所が発足した[44][注 19]。6月17日、龍馬は下田で海舟と会合し、京摂の過激の輩数十人(あるいは200人ほど)を蝦夷地開拓と通商に送り込む構想を話し、老中・水野忠精も承知し、資金三、四千両も集めていると述べている[45]。, この時点では龍馬と海舟は知らなかったが[46]、6月5日に池田屋事件が起きており京都の情勢は大きく動いていた。池田屋事件で肥後の宮部鼎蔵、長州の吉田稔麿ら多くの尊攘派志士が落命または捕縛され、死者の中には土佐の北添佶摩と望月亀弥太もいた。北添は龍馬が開拓を構想していた蝦夷地を周遊した経験のある人物で、望月は神戸海軍塾の塾生であった。, 八月十八日の政変と池田屋事件のあと、長州藩は薩摩・会津勢力によって一掃された。7月19日に京都政治の舞台に戻ることを目標とした長州軍約3,000が御所を目指して進軍したが、一日の戦闘で幕府勢力に敗れた(禁門の変)。それから少しあとの8月5日、長州は英米仏蘭四カ国艦隊による下関砲撃を受けて大打撃を蒙った(下関戦争)。禁門の変で長州兵が御所に発砲したことで長州藩は朝敵の宣告を受け、幕府はこの機に長州征伐を発令した。二度の敗戦により長州藩には抗する戦力はなく、11月に責任者の三家老が切腹して降伏恭順した(長州征討)。, お龍の後年の回想によると、これらの動乱の最中の8月1日に龍馬はお龍と内祝言を挙げている[47]。8月中旬ごろ[48] に龍馬は海舟の紹介を受けて薩摩の西郷隆盛に面会し、龍馬は海舟に対して西郷の印象を「少し叩けば少し響き、大きく叩けば大きく響く」と評している[49][注 20]。, 望月の件に続き、塾生の安岡金馬が禁門の変で長州軍に参加していたことが幕府から問題視され、さらに海舟が老中・阿部正外の不興を買ったこともあり[50]、10月22日に海舟は江戸召還を命ぜられ、11月10日には軍艦奉行も罷免されてしまった。これに至って、神戸海軍操練所廃止は避けられなくなり、龍馬ら塾生の後事を心配した海舟は江戸へ出立する前に薩摩藩城代家老・小松帯刀に彼らを託して、薩摩藩の庇護を依頼した。慶応元年(1865年)3月18日に神戸海軍操練所は廃止になった。, 龍馬ら塾生の庇護を引き受けた薩摩藩は彼らの航海術の専門知識を重視しており[51]、慶応元年(1865年)5月ごろに龍馬らに出資した(「亀山社中」[注 21])。これは商業活動に従事する近代的な株式会社に類似した性格を持つ組織であり[52][注 22]、当時商人が参集していた長崎の小曽根乾堂家を根拠地として、下関の伊藤助太夫家、そして京都の酢屋に事務所を設置した。, 長州藩では前年の元治2年(1864年)12月に高杉晋作が挙兵し、恭順派政権を倒してふたたび尊攘派が政権を掌握していた(功山寺挙兵)。亀山社中の成立は商業活動の儲けによって利潤を上げることのほかに、当時、水火のごとき関係にあった薩長両藩和解の目的も含まれており、のちの薩長同盟成立(後述)に貢献することになる。, 幕府勢力から一連の打撃を受けて、長州藩には彼らを京都政治から駆逐した中心勢力である薩摩・会津両藩に対する根強い反感が生じており、一部の藩士はともには天を戴かずと心中に誓い、たとえば「薩奸會賊(「さっかんかいぞく」薩摩の薩と會津(会津の旧漢字)の會)」の四文字を下駄底に書き踏みつけて鬱憤を晴らす者がいたほどだった。このような雰囲気の中でも、土佐脱藩志士中岡慎太郎とその同志土方久元は薩摩、長州の如き雄藩の結盟を促し、これをもって武力討幕を望んでいた。龍馬は大村藩の志士・渡辺昇と会談し、薩長同盟の必要性を力説する。渡辺は元練兵館塾頭で桂小五郎らと昵懇であったため、長州藩と坂本龍馬を周旋。長崎で龍馬と桂を引き合わせた。慶応元年(1865年)5月、まず土方と龍馬が協同して桂を説諭し、下関で薩摩の西郷隆盛と会談することを承服させる。同時に中岡は薩摩に赴き、西郷に会談を応じるよう説いた。同年閏5月21日、龍馬と桂は下関で西郷の到来を待ったが、「茫然と」した中岡が漁船に乗って現れただけであった[53]。西郷は下関へ向かっていたが、途中で朝議が幕府の主張する長州再征に傾くことを阻止するために急ぎ京都へ向かってしまっていた。桂は激怒して、和談の進展は不可能になったかに見えたが、龍馬と中岡は薩長和解を諦めなかった。, 倒幕急先鋒の立場にある長州藩に対して、幕府は国外勢力に対して長州との武器弾薬類の取り引きを全面的に禁止しており、長州藩は近代的兵器の導入が難しくなっていた。一方、薩摩藩は兵糧米の調達に苦慮していた[要出典]。ここで龍馬は薩摩藩名義で武器を調達して密かに長州に転売し、その代わりに長州から薩摩へ不足していた米を回送する策を提案した。取り引きの実行と貨物の搬送は亀山社中が担当する。この策略によって両藩の焦眉の急が解決することになるため、両藩とも自然これに首肯した。, これが亀山社中の初仕事になり、8月、長崎のグラバー商会からミニエー銃4,300挺、ゲベール銃3,000挺の薩摩藩名義での長州藩への買いつけ斡旋に成功した[54]。これは同時に薩長和解の最初の契機となった。また、近藤長次郎(この当時は上杉宗次郎と改名)の働きにより、薩摩藩名義でイギリス製蒸気軍艦ユニオン号(薩摩名「桜島丸」、長州名「乙丑丸」)の購入に成功し、所有権を巡って紆余曲折はあったが10月と12月に長州藩と桜島丸条約を結び、同船の運航は亀山社中に委ねられることになった[55]。, 9月には長州再征の勅命には薩摩は従わない旨の「非義勅命は勅命にあらず」という重要な大久保一蔵の書簡を、長州藩重役広沢真臣に届けている[56]。, 慶応2年(1866年)1月8日、小松帯刀の京都屋敷において、桂と西郷の会談が開かれた。だが、話し合いは難航して容易に妥結しなかった[57]。龍馬が1月20日に下関から[注 23] 京都に到着すると未だ盟約が成立していないことに驚愕し、桂に問いただしたところ、長州はこれ以上頭を下げられないと答えた[58]。龍馬はそれ以上桂を責めることはしなかった[59]。しかし薩摩側が桂の帰藩を止め、1月22日[60]、薩摩側からの6か条の条文が提示された。その場で検討が行われ、桂はこれを了承した[61]。これにより薩長両藩は後世薩長同盟と呼ばれることになる盟約を結んだ。龍馬はこの締結の場に列席している[62]。盟約成立後、木戸は自分の記憶に誤りがないかと、龍馬に条文の確認を行い、間違いないという返書を受け取っている[59]。, 龍馬は薩長同盟成立にあたって両者を周旋し、交渉をまとめた立役者とする意見がある[63]。これらのものでは、桂が難色を示したあとに、龍馬が西郷に働きかけ、妥協を引き出したとされる[注 24]。逆に近年の研究者の主張で西郷や小松帯刀ら薩摩藩の指示を受けて動いていたという説を唱える者(青山忠正など)もおり、薩長連合に果たした役割は小さかったと考える研究者もいる。[注 25][64]。, 盟約成立から程ない1月23日、龍馬は護衛役の長府藩士・三吉慎蔵と投宿していた伏見寺田屋へ戻り祝杯を挙げた。だがこのとき、伏見奉行が龍馬捕縛の準備を進めていた[注 26]。明け方2時ごろ、一階で入浴していた龍馬の恋人のお龍が窓外の異常を察知して袷一枚のまま二階に駆け上がり、二人に知らせた。すぐに多数の捕り手が屋内に押し入り、龍馬は高杉晋作から贈られた拳銃を、三吉は長槍をもって応戦するが、多勢に無勢で龍馬は両手指を斬られ、両人は屋外に脱出した。負傷した龍馬は材木場に潜み、三吉は旅人を装って伏見薩摩藩邸に逃げ込み救援を求めた。これにより龍馬は薩摩藩に救出された。寺田屋での遭難の様子を龍馬は12月4日付の手紙で兄・権平に報告している[65]。, 龍馬不在の長崎の亀山社中では、1月14日にユニオン号購入で活躍した近藤長次郎(上杉宗次郎)が独断で英国留学を企てて露見し、自刃させられる事件が起きていた。事件を知らされた龍馬は『手帳摘要』に「術数はあるが誠が足らず。上杉氏(近藤)の身を亡ぼすところなり」[注 27] と書き残しているが、後年のお龍の回顧では「自分がいたら殺しはしなかった」と嘆いたという[66]。, 寺田屋遭難での龍馬の傷は深く、以後、それが理由で写真撮影などでは左手を隠していることが多いのではないかと指摘する研究者もいる[67]。西郷の勧めにより、刀傷の治療のために薩摩の霧島温泉で療養することを決めた龍馬は、2月29日に薩摩藩船・三邦丸に便乗してお龍を伴い京都を出立した。3月10日に薩摩に到着し、83日間逗留した。二人は温泉療養のかたわら霧島山・日当山温泉・塩浸温泉・鹿児島などを巡った。温泉で休養をとるとともに左手の傷を治療したこの旅は龍馬とお龍との蜜月旅行となり、これが日本最初の新婚旅行とされている[注 28]。, 5月1日、薩摩藩からの要請に応えて長州から兵糧500俵を積んだ「ユニオン号」が鹿児島に入港したが、この航海で薩摩藩から供与された帆船ワイル・ウエフ号が遭難沈没し、土佐脱藩の池内蔵太ら12名が犠牲になってしまった。幕府による長州再征が迫っており、薩摩は国難にある長州から兵糧は受け取れないと謝辞し、ユニオン号は長州へ引き返した。, 6月、幕府は10万を超える兵力を投入して第二次長州征伐を開始した。6月16日に「ユニオン号」に乗って下関に寄港した龍馬は長州藩の求めにより参戦することになり、高杉晋作が指揮する6月17日の小倉藩への渡海作戦で龍馬はユニオン号を指揮して最初で最後の実戦を経験した[68][注 29]。龍馬はこの戦いについて、戦況図つきの長文の手紙を兄・権平に送っている[65]。, 長州藩は西洋の新式兵器を装備していたのに対して幕府軍は総じて旧式であり、指揮統制も拙劣だった。幕府軍は圧倒的な兵力を投入しても長州軍には敵わず、長州軍は連戦連勝した。思わしくない戦況に幕府軍総司令官の将軍・徳川家茂は心労が重なり7月10日に大坂城で病に倒れ、7月20日に21歳の短い人生を終えた。このため、第二次長州征伐は立ち消えとなり、勝海舟が長州藩と談判を行い9月19日に幕府軍は撤兵した(小倉口では交戦が続き和議が成立したのは翌慶応3年1月23日)。, 先に帆船ワイルウェフ号を喪失し、ユニオン号も戦時の長州藩へ引き渡すことになり、亀山社中には船がなくなってしまった。慶応2年(1866年)7月28日付の三吉慎蔵宛の手紙で龍馬は「水夫たちに暇を出したが、大方は離れようとしない」と窮状を伝えている[69]。このため、薩摩藩は10月にワイルウェフ号の代船として帆船「大極丸」を亀山社中に供与した。, 将軍・家茂の死後、将軍後見職・一橋慶喜の第15代将軍就任が衆望されたが、慶喜は将軍職に就くことを望まず、まずは徳川宗家の家督のみを継承していた。8月末ごろ[70]、龍馬は長崎に来ていた越前藩士・下山尚に政権奉還策を説き松平春嶽に伝えるよう頼んだ[71]。龍馬が政権奉還論を述べた最初の記録だが、政権奉還論自体は龍馬の創意ではなく、幕臣・大久保一翁がかねてから論じていたことで[72]、龍馬と下山の会見以前の8月14日には春嶽当人が慶喜に提案して拒否されていた[73]。, 尊攘派の土佐勤王党を弾圧粛清した土佐藩だが、このころには時勢の変化を察して軍備強化を急いでおり、参政・後藤象二郎を責任者として長崎で武器弾薬の購入を盛んに行っていた。航海と通商の専門技術があり、薩長とも関係の深い龍馬に注目した土佐藩は11月ごろから溝渕広之丞を介して龍馬と接触を取り、翌慶応3年(1867年)1月13日に龍馬と後藤が会談した(清風亭会談)。この結果、土佐藩は龍馬らの脱藩を赦免し、亀山社中を土佐藩の外郭団体的な組織とすることが決まり、これを機として4月上旬ごろに亀山社中は「海援隊」と改称した。, 海援隊規約によると、隊の主要目的は土佐藩の援助を受けて土佐藩士や藩の脱藩者、海外事業に志を持つ者を引き受け、運輸・交易・開拓・投機・土佐藩を助けることなどとされ、海軍と会社をかねたような組織として、隊士は土佐藩士(千屋寅之助・沢村惣之丞・高松太郎・安岡金馬・新宮馬之助・長岡謙吉・石田英吉・中島作太郎)および他藩出身者(陸奥陽之助(紀州藩)・白峰駿馬(長岡藩))など16 - 28人、水夫を加えて約50人からなっていた[74]。

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