関ヶ原の戦い 武将 年齢 5

島津軍の撤退「島津の退き口」の様子 /関ケ原笹尾山交流館, 世にいう「捨て奸(すてがまり)」の戦法で、前方へと突き進む。「捨て奸(すてがまり)」とは、本隊が退却する前に、小隊をその場に留まらせ、死ぬまで戦わせる。つまり、捨て駒としての足止め作戦である。小隊が全滅すれば、また違う小隊が死ぬまで戦う。この足止めを何度も何度も繰り返して、大将を無事に逃げ切らせるという作戦だ。, 島津義弘の脱出劇は、まさにこの「捨て奸(すてがまり)」の戦法で敵陣の中を突き抜けて正面突破をあえて行った。ちょうど東軍の細川忠興(ほそかわただおき)・黒田長政は石田三成の追撃で伊吹山へ向かっており、行く手には福島正則(ふくしままさのり)の軍がいた。しかし、なんといっても、朝鮮出兵の際に明軍から恐れられた「鬼石曼子(おにしまず)」である。死を覚悟した島津軍の士気は尋常でなく、あまりの鬼気迫る形相に手出しできなかったのだとか。ただ、このまま無事に退却できたわけではない。最後は徳川家康の本陣左翼の前を通らねばならないのだ。そこに立ちはだかったのが、家康の四男である松平忠吉(ただよし)、そして徳川四天王の井伊直政、本多忠勝らである。 1592年 – 96年 文禄の役. 1 関ヶ原の戦いで西軍に所属した武将について解説!; 2 関ヶ原の戦いにおける西軍の敗因は何だったのか?. 関ヶ原の戦いが行われた開戦地, ただ、私としては、もっとシンプルな、義弘個人の本能的なものではないかと思う。ただ、武士としての名誉のため。島津家の誇りのため。そんな気がしてならない。正直、あの混乱の中を、さすがの島津義弘も逃げ切れるとは思っていなかったのではないだろうか。討死も覚悟していたが、家臣に生き延びることを説得され、退却を決断。しかし、万が一、後方への退却の途中で討ち取られれば、それこそ九州の国元、代々続く「島津家」の誇りを汚してしまう。逃げ切るにしろ、討ち取られるにしろ「我が島津軍はなにものも恐れず、正面切って前進する」。これまでの武将としての生き方が、そう決断させたのではないだろうか。, 島津義弘は最期まで武将だった。 関ヶ原合戦陣形図 慶長5年(1600年)9月15日午前8時前/関ケ原笹尾山交流館, 関ケ原の戦いの布陣は、誰がみても西軍が圧倒的に有利だった。事実、小早川秀秋が裏切る前の午前の戦況などは、西軍が優勢だとも記録されている。しかし、徳川家康ら東軍の背後に陣を置いた吉川広家などの毛利勢。じつは、彼らの動向が関ヶ原の戦いに大きく影響した。いつも「小早川秀秋の裏切り」だけがクローズアップされるが、毛利勢も無視できない要因の一つだ。, 毛利勢の陣は家康ら東軍の背後。本来であれば、後ろから攻めて挟み撃ちにできるところを、吉川広家は「霧が濃い」「弁当を食べている」などの理由を並べ、一向に動かなかった。毛利輝元が西軍の総大将に担がれる一方で、吉川広家は小早川秀秋らとともに、徳川家康と事前に内通していたからだ。挟み撃ちにしたくとも毛利勢は動かず。かといって、他の西軍が家康の背後から攻めたくても、毛利勢がいるためできない。言い換えれば、毛利勢が家康の背後を守っていたともいえる。ただ、東軍がこのまま形勢不利となれば、毛利勢はとっとと寝返って西軍として戦うだろう。そういう意味では、戦いの結果は西軍に転ぶ可能性もあったのだ。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 検索ボックスにお好みのキーワードを入れて下さい。当サイト内の記事を探せます。 目次. 西軍の結束力の低さと首脳陣の力量不足; 2.3 敗因その3. 井伊家旗, さすがに名だたる武将の追撃は激しく、義弘もこのまま突き切ることができないと判断。反転して追撃軍と対峙するも、目の前に現れた井伊直政を家臣が鉄砲で撃ち落とすことに成功。井伊直政の落馬で、浮足立つ敵陣を見て、再度反転して義弘はさらに前方へと突き進む。しかし本多忠勝らの追撃も執拗だった。そこで、忠臣である長寿院盛淳(もりあつ)が「ご談合は必要ない」と、義弘の意向を聞くまでもなく自らが身代わりとなって時間稼ぎをした。最後まで主君の身を心配した盛淳は、義弘がある程度遠のいたことを知り「めでたい」と喜んだという。そうして、最後には敵勢に押し入り、壮絶な討死を遂げたのである。, 決死の島津軍の突破に、徳川家康も最後は追撃中止を命じたという。こうして、島津義弘は関ケ原を抜け、当初の予定を変更して、伊勢から堺へと抜ける。その後、奇跡的にも人質の女子供らとともに、国元へ帰ることができたのだ。 記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。ご要望の際は、お問い合わせよりご一報下さい。. 公式webサイト:http://www.kanko-sekigahara.jp/event/sasaoyama/, 参考文献 ※続きは【次のページへ】をclick!. 『名将名言録』 火坂雅志著 角川学芸出版 2009年11月 1600年(慶長5年)、天下分け目の戦いと言われた「関ヶ原の戦い」。この戦いは、約6時間でその勝敗が決まったと言われています。「徳川家康」の率いる東軍が「石田三成」の率いる西軍に勝ったということは分かりますが、一体なぜそんなに早く決着がついたのでしょうか? 1597年 – 98年 慶長の役 秀吉の死. 住所:岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原1167-1 【ホンシェルジュ】 室町幕府の権威が失墜した15世紀末から16世紀にかけて、「力こそが正義」だった動乱の時代が戦国時代です。守護大名だけでなく、素浪人や農民、商人出身でも強ければ戦国武将になれる実力社会でした。裏切りやだまし討ち、暗殺などなんでもあり。 開戦以前からの徳川方による調略; 2.2 敗因その2. 3杯目は、お菓子と小ぶりな茶碗に抹茶を注ぎ、茶法の通りに飲むことを勧めたそうです。, この繊細な心配りに、才能を感じ、豊臣秀吉は石田三成を傍に置くことを決意。このエピソードは「三献の茶」として大原観音寺に伝えられています。, 豊臣秀吉の領国経営(検地による領内や家臣達をまとめながら領地拡張していく)を深く尊敬していた石田三成。, 石田三成の才能を高く評価していた豊臣秀吉は、若くて武将としての経験のなかった、仕官して間もない石田三成に三百石の高禄を与えています。, 高禄はいわゆるお給料のことです。一石は約10万円。三百石ということは3,000万円をわずか18歳で与えられたということ。これは、石田家のことが書かれている「霊牌日鑑」(れいばいにっかん)に残されています。, 1583年(天正11年)に「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)が勃発。この戦いでは「織田信長」の死後、家臣であった「羽柴秀吉」と、同じく家臣であった「柴田勝家」(しばたかついえ)の権力争いが激しく衝突しました。「この戦いで次の天下は決まる!」というくらい重要な戦いです。, この戦いでは豊臣秀吉の配下であった「加藤嘉明」(かとうよしあき)、「片桐且元」(かたぎりかつもと)、「加藤清正」、福島正則、「脇坂安治」(わきさかやすはる)、「平野長泰」(ひらのながやす)、「糟屋武則」(かすやたけのり)が大活躍しました。彼らは「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる超エリートの武将達。, もちろん、石田三成も大活躍したであろうと思いきや、その戦いぶりはそれほどでもなかったそうです。石田三成は「戦下手」だったのではないかという説があります。, 石田三成は上司である豊臣秀吉には好かれていたかもれません。しかし、周りにはあまり好かれていなかったようです。これは、石田三成への妬み、恨み、不満などが重なったのが原因だと言われています。, 豊臣秀吉が命じた2度の「朝鮮出兵」(文禄の役・慶長の役)で、石田三成は朝鮮で戦っている武将と、日本の連絡役としての役割を担っていました。, 朝鮮で日本兵は大変苦戦。朝鮮で戦っている武将達からは不満の声が勃発。内容は、「戦略を変えてほしい」というものでした。, 石田三成はそれを素直に豊臣秀吉に伝えます。それを聞いた豊臣秀吉は激怒。戦略の変更を石田三成に訴えた武将達は領地を減らされるなどの処罰を受けました。これが原因で石田三成を良く思わない人もちらほら。, ちなみに、朝鮮へ出兵した武将の多くはのちに起こる関ヶ原の戦いにて東軍と西軍に分かれます。東軍と西軍に分かれた原因が朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)であったかどうかについては、定かではありません。, 豊臣秀吉に仕えていた武将達が朝鮮出兵から戻ってきた1598年(慶長3年)に豊臣秀吉は亡くなりました。現地には、豊臣秀吉に思い入れの深い武将達もいます。それにもかかわらず、石田三成は朝鮮へ出兵している武将達に豊臣秀吉の死を知らせませんでした。これには、豊臣家に仕えていた武将達が怒るのも無理はありません。, 1599年(慶長4年)、文禄の役・慶長の役での不満が募り、「豊臣七将」と言われた武将達によって、石田三成の暗殺を目的とした襲撃事件が起きました。, 七将とは、尾張清洲城主の福島正則、肥後熊本城主の加藤清正、三河吉田城主の「池田輝政」、丹後宮津城主の「細川忠興」(ほそかわただおき)、甲斐甲府城主の「浅野幸長」、伊予松山城主の加藤嘉明、豊前中津城主の「黒田長政」の7名です。, 実際はこれに、阿波徳島城主の「蜂須賀家政」(はちすかいえまさ)、伊予宇和島城主の「藤堂高虎」(とうどうたかとら)も加わったとされています。, この暗殺未遂事件が起こったことにより、石田三成は京都の「伏見城」へ一時立て篭もりました。その仲介に入ったのは徳川家康です。, これにより、石田三成は譲歩策として奉公を退任、「佐和山城」へ隠居にて隠居することになります。石田三成に不満を持っていた武将達による徳川家康への好感度は上がったことは言うまでもありません。, 石田三成の暗殺未遂事件の黒幕は、徳川家康だったのではないかという説が浮上。それだけではなく、1600年(慶長5年)に起こる関ヶ原の戦いも徳川家康が仕掛けたのではないかと言われています。, このように言われている理由は、石田三成が隠居したあとの徳川家康の行動。石田三成の隠居後、徳川家康は石田三成と仲の悪かった武将を仲間に取り込んだり、豊臣秀吉が遺言で禁じていた戦国大名達と政略結婚を進めたりとやりたい放題でした。これは、遠く離れた石田三成の耳にも届くことになります。, 徳川家康が豊臣秀吉の遺言を無視して動いているという情報が届き、「許せない!」と徳川家康への不信感を募らせる石田三成。, 石田三成以外にも、徳川家康のやりたい放題ぶりをよく思わない武将達がいました。会津の「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)とその家老「直江兼続」(なおえかねつぐ)です。そこで、徳川家康に1通の手紙を渡そうということになります。手紙はこのような内容です。, 「最近の貴方の行ないは目に余ります。秀頼様(豊臣秀吉のあとを継ぐ予定だったご子息)に何か言うことはないですか?」, これが関ヶ原の戦いを勃発させることとなったと言われている「直江状」です。この1通の手紙が、徳川家康を怒らせてしまいました。徳川家康は、石田三成や上杉景勝よりもはるか上の位です。徳川家康側からすると「目上の者に向かって、その無礼な手紙は何だ!」ということになります。, 徳川家康は上杉景勝に詰問状を送り返し、大坂城への上洛を促します。それを上杉景勝が一蹴。これにより、徳川家康は「会津征伐」を決意し大坂城から会津へ出向きます。, この征伐では、徳川家康との力量差が明らかとなりました。なんと、会津征伐を行なうために天皇の許可を取ったのです。つまり、国の方針で会津征伐を行なったということ。これは、「自分は目上であるぞ!」という周りへの見せしめでもあったのです。, 大坂城から会津へ向かうため、会津より西は徳川家康が不在となりました。これを見計らって、反徳川派がひそかに西で集結します。集まったのは石田三成をはじめ、「毛利輝元」(もうりてるもと)や「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)など。そののち、笹尾山(岐阜県不破郡関ケ原町)で西軍となる兵を挙げました。, 徳川家康は西軍が結成されたとき小山(栃木県小山市中央町)にいました。西軍の結成を徳川家康は予測していたのです。そのため、これは徳川家康の仕組んだ罠だという説があります。その証拠に西軍が結成されたあと、会津征伐をあっさりと中止しています。, 1600年(慶長5年)7月、徳川家康は会津攻め諸将を下野国小山に集結。集まった諸将はいずれも徳川家康に忠誠を誓っています。これが東軍結成の瞬間です。この小山での軍議はのちに「小山評定」(おやまひょうじょう)として広く世に知られるようになりました。そして、関ヶ原の戦いが始まります。, 「いざ西へ!」というとき、徳川家康は「結城秀康」(ゆうきひでやす)を上杉景勝に対する押さえとして、宇都宮城に残しました。そして、諸将を西へ向かわせているのですが、ここで徳川家康は余裕を見せます。なんと一旦江戸に戻ったうえで、急ぐ様子もなく東海道を西へ上って行きました。この行動からも分かるように、徳川家康には天下への切符が見えていたのでしょう。, 着々と天下へ向けて歩む徳川家康に対し、石田三成は戦術に優れていたわけでも、人徳があったわけでもありません。しかも、関ヶ原の戦いのとき、石田三成が持っていた領地は19万石。このような理由から、西軍の総大将は250万石を持つ中国地方の大名毛利輝元に決まりました。, しかし、毛利輝元は「関ヶ原の戦い」で、指揮も戦いへの参加もしていません。しかも、さっさと降参して大坂城を東軍に引き渡してしまいます。このようなことから、毛利輝元は「東軍の内通者だったのではないか?」という説も。, 表向きの西軍の総大将は毛利輝元ですが、実際に指揮命令を行なっていたのは石田三成です。やはりそれが原因なのか、関ヶ原の戦いのさなか、リタイアする者や裏切り者が続々と現れました。, まず、石田三成の重臣として大きな信頼を得ていた「島左近」(しまさこん)が関ヶ原の合戦中に倒れました。さらに西軍であるはずの「吉川広家」(きっかわひろいえ)が進路妨害。これが原因となり、進路を妨害され動けなくなった西軍の「毛利秀元」(もうりひでもと)が出陣できない理由を「今、弁当を食べているから」と言い訳したことに由来する「宰相殿の空弁当」という出来事も発生しました。このように、吉川広家が味方の進路妨害をした理由は東軍の内通者だったからに他なりません。, 「小早川秀秋」(こばやかわひであき)もあからさまに西軍から東軍へ。裏切ったのは彼だけではありません。その他にも藤堂高虎などが内通者だったと言われています。そのあと、すぐに「赤座直保」(あかざなおやす)、「小川祐忠」(おがわすけただ)、「朽木元綱」(くちきもとつな)も寝返りました。さらに毛利輝元は、東軍の黒田長政から「あなたの領地は安全ですよ」という、西軍が負けた場合の保証(本領安堵)と引き換えに大坂城をあっさり明け渡しました。このように、石田三成の率いるはずだった西軍は、あれよあれよと衰退。これは石田三成にとって大誤算でした。, その後、西軍の人数が減っていることに気付かず、東軍の大坂進軍を止めるべく、関ヶ原の近く「大垣城」へ進出。しかし、東軍は予定よりも早く関ヶ原へ到着していました。この場所で東軍の総攻撃があり、ついに西軍が壊滅。関ヶ原の戦いが始まってからわずか6時間弱のことでした。石田三成は敗戦の際に逃亡しますが、数日後に捕まり、処刑されてしまいます。, 一方、慌てず、動じずに自分が戦いやすいように駒を進めた徳川家康は、泰然自若な天下人。1603年(慶長8年)の2月、徳川家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開き、270年に亘る長き徳川家の歴史が始まります。, 刀剣の専門サイト・バーチャル刀剣博物館「刀剣ワールド」の制作は、東建コーポレーション株式会社と一般財団法人 刀剣ワールド財団、株式会社東通エィジェンシーの共同制作です。.

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